2007年の7月上旬に渡米し、生活のセットアップに明け暮れる中、前職の事業再生ファンドの投資先であったA社の社長からスカイプで連絡がありました。
「明日、裁判所に破産を申請しにいく。」
2年前の7月19日の記事で書いたショックな出来事とは、この出来事でした。3年間、自分が再生のお手伝いをしてきたA社が、渡米した直後に倒産し消滅することが決まりました。HBSの出来事ではありませんが、この2年間で自分におきた最初のTransformational Experienceでした。
メインバンクは支えてきてくれていたのに何故?従業員はどうなるのだろう?社長はどうするのか?3年間一緒に戦ってきた従業員の方々や、長年勤めた会社をやめターンアラウンドマネージャーとしてやってきてくれた社長たち、二人三脚で進めた度重なる人員削減計画の中で癌で亡くなった総務部長、色んな人のことが胸に去来しました。結局3年間自分は努力してきたけれども、誰も救えなかった。そういう思いが強く心に刻まれました。もちろん、自分がもっと努力したとしても結果は変わらなかったかもしれなかったし、自分にもっと力があったら。。。と思うのは一兵卒の思い上がりということもわかっていました。それでも、自分に力がもっとあったらという気持ちはぬぐいされませんでした。
A社の事業再生プロジェクトでの経験が自分をHBSに導いてくれました。それなのに、自分は何も返せませんでした。破産ということで、A社がなくなってしまうことは決まったので、自分はA社には何も返すことができません。直接恩を返すことが出来なくなった中、自分はこう思いました。「A社やA社に関連した人たちが導いてくれたHBSで自分は力をつけて、同じような状況の会社に出会ったなら今度は救えるようになろう」と。
HBSの2年間を終えて、当時よりも少しは力がついたようには思います。Strategyの授業で身に着けたフレームワークで考えると、A社がいた業界はHBSの教授がよくFive Star Crappy Industryと形容する非常に魅力度の低い業界でした。A社はコストアドバンテージはなく、高付加価値な商品で勝負していたのですが、その付加価値は顧客が金を払ってでも得たいものではありませんでした。BSSEの授業で身に着けたDisruptive Innovationのフレームワークでも、A社の競合商品の急成長とA社の窮境は説明できる部分があります。
Turnaroundの授業で学んだ事業再生のステップと照らし合わせると、当時進めたことは正しいと思える部分もありますが、間違った選択だったと思えることもたくさんあります。
卒業して、自分は再びいわゆるPrivateEquity業界というところに挑戦することになりました。今度は事業再生関連の案件だけではなく、様々な投資・価値向上のプロジェクトに関わることになります。HBSで2年間学んだからといって、うまく出来るかどうかはわかりません。ただ、少なくとも再びチャンスを手に入れることはできたし、様々な武器を得て前よりも戦えるようになったとは感じています。
直接は返せないけれども、A社とA社に関連した皆さんに恩を返すことに卒業後はチャレンジしたいと思います。
サイト運営し始めた者なんですが、相互リンクしていただきたくて、コメントさせていただきました。
http://hikaku-lin.com/link/register.html
こちらより、相互リンクしていただけると嬉しいです。
まだまだ、未熟なサイトですが、少しずつコンテンツを充実させていきたいと思ってます。
突然、失礼しました。
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投稿情報: hikaku | 2009年5 月 9日 (土) 22:32